沖縄都市モノレール、いわゆるゆいレールのお話です。
「お墓のためにモノレールが迂回する?」~玉城朝薫のお墓とゆいレールの関係~
現在は、2024年6月ですがこのちょうど5年前の2019年10月に、ゆいレールの延伸区間である首里駅~てだこ浦西駅間が開通しました。
開通当時も現在も一部で話題になっていたのが、途中の前田トンネル付近で軌道が不自然にカーブしているのはなぜか、という疑問でした。
そして、その答えとして浮上したのが、玉城朝薫のお墓を迂回するため、という説です。
延伸区間開通1周年を記念して(それほどのことではありませんが)、今回は現地調査も行った上で、モノレールと文化財クラスのお墓の関係について考えてみたいと思います。
こちらが玉城朝薫のお墓で、積まれた石が柔らかい曲線を描いていて、美しい姿を見せています。
目次
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組踊の創始者は、玉城朝薫
玉城朝薫は1684年に生まれ、1734年に亡くなったといわれますから、今から300年ほど前に生きた人です。
もともと、王家の血筋に属する人で、琉球王朝の役人でもありました。そして、中国皇帝からの使者である冊封使をもてなすための役職である踊奉行に任命されました。
そして朝薫は組踊を創り上げます。したがって、玉城朝薫は組踊の創始者ということになります。
沖縄が世界に誇る組踊は舞台芸術
組踊は、歌と三線による音楽と、台詞、舞踊の三つを組み合わせた歌舞劇です。
玉城朝薫が、能、狂言、歌舞伎なども取り入れて18世紀の初めごろ完成させたとされます。
音楽、言葉、踊りはもちろん、筋立てや衣装も含めて、琉球芸能の宝石箱のようなもの。
日本の歌舞伎、ヨーロッパのオペラ、アメリカのミュージカルなどと並ぶ、沖縄が世界に誇る舞台芸術です。朝薫の作品の中で、300年経った今でも人気が高いのが「執心鐘入」という作品です。
イケメンで有名な中城若松が奉公のために一人首里王府に向かう途中、日が暮れてしまったので、近くの民家に泊めてもらいたいと頼み込みます。そこに住む女は、親が留守だといって一度は断りますが、相手が以前から好きだった若松だと知ると泊めてくれるといいます。
そして女は若松にいい寄りますが、怖くなった若松は拒否して逃げ出し、近くの寺に助けを求めます。住職は若松をいったん鐘の中に隠しますが、危険だと判断して他に移します。
鐘を見つけた女は「あの鐘が怪しい」と逆上し、鐘の中に飛びこんで鬼女に変身。それを住職たちが法力を使って追い払う、といったストーリーです。能や歌舞伎で人気の「道成寺もの」を取り入れ、沖縄風にアレンジしたとされています。
組踊の継承・発展のための国立劇場おきなわ
当初組踊は、冊封使を接待するために上演されたものでしたが、士族階級の娯楽として発展し、明治に入ると一般庶民にも親しまれるようになりました。1972年には沖縄の日本復帰と同時に国の重要無形文化財に指定されています。
この組踊の継承・発展を主な目的に、2004年には浦添市に国立劇場おきなわもオープンし、上演はもちろん演者の養成も行われています。
お墓は浦添のトンネルの上
沖縄の伝統芸能の世界で、今も尊敬されている玉城朝薫ですが、お墓が浦添市の前田トンネルの上にあるのです。
トンネルの真上には小さな森があり、その北側斜面にお墓があります。案内板によるとこのお墓は石積みで、曲線を多用しているのが特徴です。17世紀後半から18世紀前半に造られたそうです。
トンネルの真上には小さな森があり、その北側斜面にお墓があります。案内板によるとこのお墓は石積みで、曲線を多用しているのが特徴です。17世紀後半から18世紀前半に造られたそうです。
首里駅からてだこ浦西駅に向かうと、経塚駅を出たところでモノレールはいったん右にカーブします。前田トンネルの真上を左に見ながら通過し、直後にまた左へカーブし、浦添前田駅に向かいます。
たしかに、軌道は玉城朝薫のお墓を迂回するようにトンネルの東側にふくらんでいるように見えます。
経塚駅の下から見ると、軌道がトンネルの右側にふくらんでいるのがわかります。
文化財保護のためのコース迂回か
噂ですが、当初はトンネルの真上を直進する案もあったそうです。その方がコースは短くなるので、建設コストがおさえられたかも知れません。
しかし、そのためには玉城朝薫のお墓を壊して、他へ移さなくてはなりません。歴史上の偉人の、文化財としても価値の高い建造物を、モノレールを通すからという理由で破壊したり移転したりするのはマズイという判断があったとしても、それはそれでうなずけます。
トンネルの上に上がってみると正面に小さな森があり、反対側の斜面に玉城朝薫のお墓があります。その右側をモノレールが通過していきます。
まとめ
この件で思い出したのが、貝塚の保存のために国道が迂回したという話です。
1974年に恩納村仲泊で貝塚が発見されました。当時、海洋博覧会に間に合わせるために、国道58号線4車線化の工事が急ピッチで進められていました。そこへ貝塚が発見されたため、58号線のルートが海側へ大きく迂回するコースに変更されました。
当時から、大規模な開発によって文化財が破壊されることが社会問題になっていました。モノレールの迂回も文化財の破壊を避けるためだったとしたら、ある意味健全な発想だったといえますね。